<勤労動員>
神戸に飛行機を作る学校が新しくでき、辻井さんはそこへ入学しました。そのころ日本は、戦争がどんどんはげしくなって、中高生くらいの生徒が工場で働くようになりました。それを勤労動員(きんろうどういん)といいます。
辻井さんも3年生の4月、明石の飛行機の工場へ勤労動員されました。他の学校からもずいぶん大ぜいの中学生やら、女学生が工場へ動員されて来ました。
<昭和17年4月 空襲(くうしゅう)>
辻井さんは、はじめての空襲を見ました。六甲山の病院へお姉さんをみまいに行った時です。おく上にいたら山のむこうからギーンというエンジンの音がして、ばくげき機が1機、造船所の方へ飛んでいきました。まもなくばく発の音と共に黒いけむりがのぼりました。日本がとうとう空襲をうけたのです。
<明石空襲>
昭和20年。このころになると日本の大きな町が次々と空襲におそわれ始めました。名古屋に空襲があった。次は明石だろう。辻井さんはかくごしました。昭和20年1月19日のことでした。飛行機の工場は、空襲が来たときのために飛行機を、飛行場のはしっこにとめました。辻井さんたちが飛行機を移動させていたとき、空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴りました。広い飛行場を走って行き来するうちに、他の学校の生徒たちはみんな、ひなんが終わっていました。大変、上空にはもうB29が来ています。辻井さんはいそいで引き返しました。谷ぞいに川があって、コンクリートのトンネルのようになったところへかくれようと行ってみましたが、すでに大ぜいの人で満員です。「どこの学校や!ここはきみらのひなん場所とちがうぞ、出ていけ。!と言われました。いっしょにいた神戸の長田高校の生徒も入れてもらえず、とほうにくれていました。しかたなく、みぞにそって南の方向に走りましたが、すぐその後へ爆弾が落ちました。長田高校の生徒が何人か爆弾にあたって死にました。辻井さんはむちゅうで目の前のみぞにとびこみました。けれどそこは、飛行機からは、まる見えです。たえまないばく弾が落ちてきます。いっしょにいた先生が「かくごせい!」と小声で言われました。「死ぬのならあの飛行機を見ておいてやる」辻井さんは、やけっぱちになって立ち上がって、やってくるB29の編隊をじいっと見ていました。人は恐怖があんまり強いと、おしっこでズボンをぬらしてしまうのですが、生徒の中にもそんな人がたくさんあったのです。
<3月 神戸空襲―人の命より、駅を守る?>
明石の工場から帰るのに、ばくげきで三木行きのバスはありません。電車で帰ろうと思い、兵庫駅まで行きました。その電車の中で空襲警報が出たのです。いそいで電車をおりて湊川のトンネルに入ってみると、人がいっぱいです。辻井さんは神戸電鉄の駅へにげました。ところが何と、目の前で駅のシャッターが下ろされてしまったのです。人間よりも、駅を守るためです。大ぜいの客もホームにいた人も、みんな放り出されました。仕方なく外に出て、やっとぎゅうぎゅうの防空ごうの中へ入れました。
<6月5日神戸空襲の惨状>
神戸に大空襲があった次の日、辻井さんは工場からの連絡を持って、神戸の学校へ行った時のことです。電車は、空襲で止まっています。ちょうど名古屋行きのトラックを見つけて乗せてもらい、神戸に向かいました。ところが須磨まで行ったところで、電車の上の架線がだらりとたれ下がり、電車は焼けこげていて、道路はふさがっていました。辻井さんはそこから歩いて学校まで行きました。そこで空襲のひがいのひどさを見たのです。
学校に着くと、校庭にしょうい弾が何本もつきささっていました。
(しょうい弾 ばくだんではなく、町を焼きはらうための油がつめられ、火をふいて大量に落とされます。)
校舎に入って、辻井さんは立ちすくみました。大勢の人がひなんしてきています。おびただしい数のけが人、死んだ人が次から次へ運ばれてきます。どこかから「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・」という声が聞こえます。あたりは何かがこげた臭い、死んだ人の臭い、便所の臭い、それらがまじって、ただならぬにおいでした。
空襲のあくる日、道を歩いていると、何か焼けこげたものが道にならんでいます。辻井さんはてっきり、焼けた電柱をたき木にでもするのだろうと思っていましたが、近づいてみて思わず顔をそらせました。人間の死体でした。真っ黒にやけてはれあがった死体を、みぞにならべてあったのです。
<6月9日 明石空襲>
辻井さんがこんなにひさんな光景を見たのは、一生涯で初めてでした。
「ウーウーウー、ウーウーウー」
もう耳なれたけれど不吉な、いやな空襲警報のサイレンを、この日は工場へ行くバスの中で聞きました。
バス停につくと、中学生4、50人が息を切らして走ってきます。
「こんな小さい生徒まで働かされているのか」そう思って見ていますと、いっしょにいた先生が「この子らをたのむ!」とさけびました。いそいで辻井さんはその生徒達を連れて明石公園へ走りました。ところが公園の中の、城の裏へかくれようと行ってみてがく然としました。そこはひなんしてきた人でいっぱい。明石の町の人や汽車から降りて逃げてきた人、飛行機の工場で働く人らであふれ、とても中へは入れません。いそいで近くの池まで走り、木がしげっている下にかくれました。身を固くして息をひそめていると、後ろの工場からラジオが聞こえます。「敵は大阪湾の上空で、西へ向かっています」「(はりまなだ)で、向きをかえています」
ラジオがそんなことを言っているあいだにもう、頭の上へB29の編隊が来ていました。見る見る目の前の池に、おびただしい数のばく弾のかけらが落ちてきて、まるで、大なべでお湯をわかしたようです。
やっと空襲がおさまりました。みんな無事かをたしかめ、ほっとして中学生を連れて帰るとちゅう、たんかを持って公園へ急ぐ人たちが口々に、「明石公園はぜんめつやで。」と言っています。明石公園だって?さっき、辻井さんがかくれようとしていっぱいだった場所です。もしあそこにかくれていたら・・・辻井さんはぞっとしました。
辻井さんはおそるおそる明石公園へ行ってみました。・・・無残でした。
爆弾で手足のちぎれたものがそこかしこに飛び散り、そこから誰のかわからない手や足、胴体を集めて一人分にして、コモに乗せ、つぎつぎと運んでいきます。目を移して建物を見ると、壁が爆風で浮くのといっしょにくぎが浮き上がり、そのくぎの先に、人間の肉の吹き飛んだのがささっているのです。木の枝々の葉っぱが爆風でちぎれ、そこには人の衣服のちぎれたのがひっかかっています。おびただしい遺体のは火葬場まで運ぶよゆうもなく、その場で山のように積み上げられたまま焼かれ、何日もかかって燃えていました。辻井さんのまぶたから消えることのない光景です。この日、ぎせいになったのは、武器も持たない大ぜいの町の人たちだったのです。
明石のひどさを聞いていた三木の人は、明石へ行った生徒達を心配していました。空襲のあった日の晩には耳をすませて、辻井さんが帰ってくる靴音が聞こえてくると、「ああ、無事に帰って来たんだな。」と安心してくれていました。
<もうひとつの空襲>
終戦に近い6月の空襲の時のことです。飛行機工場のまわりには、工場で働くために集められた貧しい人達が住んでいました。いつものように空襲警報が鳴り、辻井さんは逃げていくさなか、エンドウ畑の中で人のけはいがしました。「おかしいな、こんな危険なときに」不思議に思い、エンドウ畑へ行ってみると、小学5年生くらいの子どもが、一人でエンドウ豆を食べていたのです。足元には豆のからが散らばり、その子のポケットはいっぱいの生エンドウの豆でふくらんでいました。生エンドウなどくさくて食べられません。よっぽど食べ物がなかったのでしょう。ガリガリにやせた子どもは、叱られると思ったのか、びっくりして辻井さんを見つめました。「きみ、立ってたらあかん。空襲がくるぞ。うねの間にふせとけ。」辻井さんは、それだけ言って、ひとり考えながら空襲の中、走りました。<この子は死ぬかもしれない空襲よりも、空腹の方がつらかったのだ。>
辻井さんがこんなにひさんな光景を見たのは、一生涯で初めてでした。
「ウーウーウー、ウーウーウー」
もう耳なれたけれど不吉な、いやな空襲警報のサイレンを、この日は工場へ行くバスの中で聞きました。
バス停につくと、中学生4、50人が息を切らして走ってきます。
「こんな小さい生徒まで働かされているのか」そう思って見ていますと、いっしょにいた先生が「この子らをたのむ!」とさけびました。いそいで辻井さんはその生徒達を連れて明石公園へ走りました。ところが公園の中の、城の裏へかくれようと行ってみてがく然としました。そこはひなんしてきた人でいっぱい。明石の町の人や汽車から降りて逃げてきた人、飛行機の工場で働く人らであふれ、とても中へは入れません。いそいで近くの池まで走り、木がしげっている下にかくれました。身を固くして息をひそめていると、後ろの工場からラジオが聞こえます。「敵は大阪湾の上空で、西へ向かっています」「(はりまなだ)で、向きをかえています」
ラジオがそんなことを言っているあいだにもう、頭の上へB29の編隊が来ていました。見る見る目の前の池に、おびただしい数のばく弾のかけらが落ちてきて、まるで、大なべでお湯をわかしたようです。
やっと空襲がおさまりました。みんな無事かをたしかめ、ほっとして中学生を連れて帰るとちゅう、たんかを持って公園へ急ぐ人たちが口々に、「明石公園はぜんめつやで。」と言っています。明石公園だって?さっき、辻井さんがかくれようとしていっぱいだった場所です。もしあそこにかくれていたら・・・辻井さんはぞっとしました。
辻井さんはおそるおそる明石公園へ行ってみました。・・・無残でした。
爆弾で手足のちぎれたものがそこかしこに飛び散り、そこから誰のかわからない手や足、胴体を集めて一人分にして、コモに乗せ、つぎつぎと運んでいきます。目を移して建物を見ると、壁が爆風で浮くのといっしょにくぎが浮き上がり、そのくぎの先に、人間の肉の吹き飛んだのがささっているのです。木の枝々の葉っぱが爆風でちぎれ、そこには人の衣服のちぎれたのがひっかかっています。おびただしい遺体のは火葬場まで運ぶよゆうもなく、その場で山のように積み上げられたまま焼かれ、何日もかかって燃えていました。辻井さんのまぶたから消えることのない光景です。この日、ぎせいになったのは、武器も持たない大ぜいの町の人たちだったのです。
明石のひどさを聞いていた三木の人は、明石へ行った生徒達を心配していました。空襲のあった日の晩には耳をすませて、辻井さんが帰ってくる靴音が聞こえてくると、「ああ、無事に帰って来たんだな。」と安心してくれていました。
<もうひとつの空襲>
終戦に近い6月の空襲の時のことです。飛行機工場のまわりには、工場で働くために集められた貧しい人達が住んでいました。いつものように空襲警報が鳴り、辻井さんは逃げていくさなか、エンドウ畑の中で人のけはいがしました。「おかしいな、こんな危険なときに」不思議に思い、エンドウ畑へ行ってみると、小学5年生くらいの子どもが、一人でエンドウ豆を食べていたのです。足元には豆のからが散らばり、その子のポケットはいっぱいの生エンドウの豆でふくらんでいました。生エンドウなどくさくて食べられません。よっぽど食べ物がなかったのでしょう。ガリガリにやせた子どもは、叱られると思ったのか、びっくりして辻井さんを見つめました。「きみ、立ってたらあかん。空襲がくるぞ。うねの間にふせとけ。」辻井さんは、それだけ言って、ひとり考えながら空襲の中、走りました。<この子は死ぬかもしれない空襲よりも、空腹の方がつらかったのだ。>
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