2018年2月10日土曜日

戦争体験の記録を公開します

戦争体験者の記録の中から3人の方の記録を、ご本人、ご遺族の許可を得、仮名で公開しました。小中校生にも理解できるように、言葉、表現を変えています。数多くの方に読んでいただければ有り難いです。(満州引き揚げ・シベリア抑留・明石、神戸空襲)

神戸・明石空襲

三木市大塚町 辻井 俊一(仮名)

<勤労動員>
神戸に飛行機を作る学校が新しくでき、辻井さんはそこへ入学しました。そのころ日本は、戦争がどんどんはげしくなって、中高生くらいの生徒が工場で働くようになりました。それを勤労動員(きんろうどういん)といいます。
辻井さんも3年生の4月、明石の飛行機の工場へ勤労動員されました。他の学校からもずいぶん大ぜいの中学生やら、女学生が工場へ動員されて来ました。

<昭和17年4月 空襲(くうしゅう)>
辻井さんは、はじめての空襲を見ました。六甲山の病院へお姉さんをみまいに行った時です。おく上にいたら山のむこうからギーンというエンジンの音がして、ばくげき機が1機、造船所の方へ飛んでいきました。まもなくばく発の音と共に黒いけむりがのぼりました。日本がとうとう空襲をうけたのです。

<明石空襲>
昭和20年。このころになると日本の大きな町が次々と空襲におそわれ始めました。名古屋に空襲があった。次は明石だろう。辻井さんはかくごしました。昭和20年1月19日のことでした。飛行機の工場は、空襲が来たときのために飛行機を、飛行場のはしっこにとめました。辻井さんたちが飛行機を移動させていたとき、空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴りました。広い飛行場を走って行き来するうちに、他の学校の生徒たちはみんな、ひなんが終わっていました。大変、上空にはもうB29が来ています。辻井さんはいそいで引き返しました。谷ぞいに川があって、コンクリートのトンネルのようになったところへかくれようと行ってみましたが、すでに大ぜいの人で満員です。「どこの学校や!ここはきみらのひなん場所とちがうぞ、出ていけ。!と言われました。いっしょにいた神戸の長田高校の生徒も入れてもらえず、とほうにくれていました。しかたなく、みぞにそって南の方向に走りましたが、すぐその後へ爆弾が落ちました。長田高校の生徒が何人か爆弾にあたって死にました。辻井さんはむちゅうで目の前のみぞにとびこみました。けれどそこは、飛行機からは、まる見えです。たえまないばく弾が落ちてきます。いっしょにいた先生が「かくごせい!」と小声で言われました。「死ぬのならあの飛行機を見ておいてやる」辻井さんは、やけっぱちになって立ち上がって、やってくるB29の編隊をじいっと見ていました。人は恐怖があんまり強いと、おしっこでズボンをぬらしてしまうのですが、生徒の中にもそんな人がたくさんあったのです。

<3月 神戸空襲―人の命より、駅を守る?>
明石の工場から帰るのに、ばくげきで三木行きのバスはありません。電車で帰ろうと思い、兵庫駅まで行きました。その電車の中で空襲警報が出たのです。いそいで電車をおりて湊川のトンネルに入ってみると、人がいっぱいです。辻井さんは神戸電鉄の駅へにげました。ところが何と、目の前で駅のシャッターが下ろされてしまったのです。人間よりも、駅を守るためです。大ぜいの客もホームにいた人も、みんな放り出されました。仕方なく外に出て、やっとぎゅうぎゅうの防空ごうの中へ入れました。

<6月5日神戸空襲の惨状>
神戸に大空襲があった次の日、辻井さんは工場からの連絡を持って、神戸の学校へ行った時のことです。電車は、空襲で止まっています。ちょうど名古屋行きのトラックを見つけて乗せてもらい、神戸に向かいました。ところが須磨まで行ったところで、電車の上の架線がだらりとたれ下がり、電車は焼けこげていて、道路はふさがっていました。辻井さんはそこから歩いて学校まで行きました。そこで空襲のひがいのひどさを見たのです。
学校に着くと、校庭にしょうい弾が何本もつきささっていました。
(しょうい弾 ばくだんではなく、町を焼きはらうための油がつめられ、火をふいて大量に落とされます。)
校舎に入って、辻井さんは立ちすくみました。大勢の人がひなんしてきています。おびただしい数のけが人、死んだ人が次から次へ運ばれてきます。どこかから「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・」という声が聞こえます。あたりは何かがこげた臭い、死んだ人の臭い、便所の臭い、それらがまじって、ただならぬにおいでした。
空襲のあくる日、道を歩いていると、何か焼けこげたものが道にならんでいます。辻井さんはてっきり、焼けた電柱をたき木にでもするのだろうと思っていましたが、近づいてみて思わず顔をそらせました。人間の死体でした。真っ黒にやけてはれあがった死体を、みぞにならべてあったのです。

<6月9日 明石空襲>
辻井さんがこんなにひさんな光景を見たのは、一生涯で初めてでした。
「ウーウーウー、ウーウーウー」
もう耳なれたけれど不吉な、いやな空襲警報のサイレンを、この日は工場へ行くバスの中で聞きました。
バス停につくと、中学生4、50人が息を切らして走ってきます。
「こんな小さい生徒まで働かされているのか」そう思って見ていますと、いっしょにいた先生が「この子らをたのむ!」とさけびました。いそいで辻井さんはその生徒達を連れて明石公園へ走りました。ところが公園の中の、城の裏へかくれようと行ってみてがく然としました。そこはひなんしてきた人でいっぱい。明石の町の人や汽車から降りて逃げてきた人、飛行機の工場で働く人らであふれ、とても中へは入れません。いそいで近くの池まで走り、木がしげっている下にかくれました。身を固くして息をひそめていると、後ろの工場からラジオが聞こえます。「敵は大阪湾の上空で、西へ向かっています」「(はりまなだ)で、向きをかえています」
ラジオがそんなことを言っているあいだにもう、頭の上へB29の編隊が来ていました。見る見る目の前の池に、おびただしい数のばく弾のかけらが落ちてきて、まるで、大なべでお湯をわかしたようです。
やっと空襲がおさまりました。みんな無事かをたしかめ、ほっとして中学生を連れて帰るとちゅう、たんかを持って公園へ急ぐ人たちが口々に、「明石公園はぜんめつやで。」と言っています。明石公園だって?さっき、辻井さんがかくれようとしていっぱいだった場所です。もしあそこにかくれていたら・・・辻井さんはぞっとしました。
辻井さんはおそるおそる明石公園へ行ってみました。・・・無残でした。
爆弾で手足のちぎれたものがそこかしこに飛び散り、そこから誰のかわからない手や足、胴体を集めて一人分にして、コモに乗せ、つぎつぎと運んでいきます。目を移して建物を見ると、壁が爆風で浮くのといっしょにくぎが浮き上がり、そのくぎの先に、人間の肉の吹き飛んだのがささっているのです。木の枝々の葉っぱが爆風でちぎれ、そこには人の衣服のちぎれたのがひっかかっています。おびただしい遺体のは火葬場まで運ぶよゆうもなく、その場で山のように積み上げられたまま焼かれ、何日もかかって燃えていました。辻井さんのまぶたから消えることのない光景です。この日、ぎせいになったのは、武器も持たない大ぜいの町の人たちだったのです。
明石のひどさを聞いていた三木の人は、明石へ行った生徒達を心配していました。空襲のあった日の晩には耳をすませて、辻井さんが帰ってくる靴音が聞こえてくると、「ああ、無事に帰って来たんだな。」と安心してくれていました。

<もうひとつの空襲>
終戦に近い6月の空襲の時のことです。飛行機工場のまわりには、工場で働くために集められた貧しい人達が住んでいました。いつものように空襲警報が鳴り、辻井さんは逃げていくさなか、エンドウ畑の中で人のけはいがしました。「おかしいな、こんな危険なときに」不思議に思い、エンドウ畑へ行ってみると、小学5年生くらいの子どもが、一人でエンドウ豆を食べていたのです。足元には豆のからが散らばり、その子のポケットはいっぱいの生エンドウの豆でふくらんでいました。生エンドウなどくさくて食べられません。よっぽど食べ物がなかったのでしょう。ガリガリにやせた子どもは、叱られると思ったのか、びっくりして辻井さんを見つめました。「きみ、立ってたらあかん。空襲がくるぞ。うねの間にふせとけ。」辻井さんは、それだけ言って、ひとり考えながら空襲の中、走りました。<この子は死ぬかもしれない空襲よりも、空腹の方がつらかったのだ。>

シベリア抑留(よくりゅう)

自由が丘在住 90歳 加藤秀一(仮名)

<シベリア>
あなたの住んでいるところは、一番寒いとき何度くらいですか。シベリアというところは冬、マイナス何十度にもなります。おうちの冷蔵庫の冷とう庫どころではありません。その寒い寒いシベリアへ日本の兵隊達は、連れて行かれたのです。戦争が終わり、「日本へ帰れるのだぞ」と喜んだのはつかの間・・・
昭和18年、21歳で加藤さんは兵隊に行きました。今ならちょうど大学生のお兄ちゃんくらいの年ごろに、加藤さんは、中国の満州というところで、若い兵隊に軍隊を教える役をしました。
ある年の8月の訓練中、何気なしに空を見上げた加藤さんは、「あっ」と息をのみました。北の方から何だか見たことのない飛行機が飛んできます。ソ連の戦とう機です。ついにソ連のこうげきが始まったのです。
日本の軍隊は大いそぎで戦う準備をして、満州の中心のまち、牡丹江(ぼたんこう)へ向かいました。

<満州開拓団>
牡丹江に着くと、なんとおおぜいのお年寄りや女の人、子ども達が、汽車の屋根のない車りょうに乗っていました。きのうの晩からの雨で、みんなびしょぬれです。満州に住んでいた開拓団の人たちがソ連の攻撃からにげてきたのです。
開拓団というのは知っていますか。そのころ日本は、満州も自分のものにしました。その満州へ日本人は行って住みなさいとすすめたので、たくさんの日本人が満州へ行ったのです。それが満州開拓団です。
話はもどります。向こうからソ連の戦とう機が3機、飛んできました。そしてお年寄り、女の人、子どもばかりの車りょうめがけて、こうげきしたのです。「助けないと!」加藤さん達は思いました。けれども反げきできるような武器はありません。こうげきがおさまってから、大けがした子どもにほうたいを巻くのがやっとでした。

<ソ連軍の攻撃の中で>
9月中ごろ、たこつぼ掘りをしました。たこつぼとは、敵から見えないよう穴を掘り、戦車の通る道にばくだんをしかけます。そのためのあなを「たこつぼ」といいます。
たこつぼをほったあと、食事が出されました。けれど兵隊たちは、よっぽどつかれたんでしょう、物も言わず地べたにすわりこんだままです。加藤さんは、どなりもしかりもせず、だまって兵隊達におにぎりを作って食べさせました。
次の日からは、夕方くらくなると、くわ畑にかくれ、敵の戦車が来るのを待ち、来たらばくだんを持ったまま飛び込む作戦を続けました。

<戦争が終わった>
9月15日のことです。天皇陛下からの「戦争は終わった」という無線を聞いたのです。
さあ、戦争が終わったとなると、多くの兵隊がてんで勝手に帰ってしまいました。ソ連がこうげきしてくるので早く逃げたいのです。加藤さんの部隊も、たった3人しか残っていません。その3人に加藤さんは、こう言い聞かせました。「君たちな、命をむだにしてはいけないぞ。敵の戦車にも、むやみに飛び込んではいけない。お国のために死ぬのはいつでもできるのだから。」
それからも、命のきけんにあうことは何度もありました。
隊長から命令されて、ていさつする間に、元いた場所がばくげきされ、おおぜい人が死にました。おなかをすかせて畑のきゅうりばかり食べていました。食事のしたくをし、さあ食べようという時に、またこうげきです。仲間がもう少しで撃たれそうになり、腰にさしていたたまが銃剣にあたって、死なずに助かりました。
それからは毎晩、雨がふるので、屋根を作ってしのぎました。なれない食べ物で、やはり下痢ばかりの毎日です。
線路をこえる時に、またソ連軍の攻撃がありました。すきを見て走って、谷へおりていったその時、一人の日本人がこちらに向かって何か叫んでいます。
「おーい、おまえたち。日本に帰れるぞ!銃をそこに捨てて、出てこい!」
日本に帰る?何とうれしいことだ。夢にまで見た家族に会えるんだ。加藤さん達は大喜びで、持っていた食料をお腹いっぱい食べ、重い銃は全部捨てました。
けれども、谷から出た加藤さん達をとりかこんだのは、銃を持ったソ連軍でした。さっき叫んだのは、ソ連のほりょになった日本人だったのです。そうか、だまされたのだ!加藤さん達は、全員ソ連軍につかまり、ほりょになってしまったのです。

<シベリア抑留>
がっくりして希望をうしなった加藤さんは、ソ連軍から身体検査を受け、あわのおかゆを出されたのをむりやり食べ、下痢をくりかえし、夜になると遠い所までへ歩かされました。ソ連兵につれられ、ひたすら歩き続け、夜になると、駅のがらんとした冷たい石だたみの上で寝ました。満州は、夏も終わりになると、日本とはちがってひどい寒さです。おまけに、兵隊はうすい夏服のままでした。やっとこさ到着したのは、鉄道の駅員のとまる所です。そこで1泊し、よく朝、牡丹江に着きました。満州のあちこちから、同じようにほりょになった日本兵が、いっぱい集められていました。ほりょは、1000人ひとまとめにされ、牛小屋の2階に連れていかれました。みじめな気持ちで、ほし草やわらの上に横になっていますと、夜中にどこからか兵隊さんが、「シナの夜」という歌を歌っています。そのころよくはやった、中国ふうの静かな歌です。ほりょになった兵隊さんは、いったいどんな思いでこの歌をきいたのでしょう。そしてつぎの日に、加藤さん達はシベリアに旅立ちました。

<ほりょ生活>
何日かたって、シベリアに着きました。ほりょ生活が始まります。住む場所として与えられたのは、ぼろぼろの建物です。食堂にはテーブルもいすもなく、窓はこわれていました。日本人の兵隊は、「だれか家具が作れる者いないか」、「鍛冶屋さんができる者は」、「左官は、」とよびかけ、みんなで家を建てることにしました。そして苦労して何とか自分達が住めるような所ができました。
ほりょの兵隊はどんなものを食べたのでしょう。馬のえさにするコウリャン、大豆、小麦、あわ、ひえ等のおかゆです。お米のおかゆもありますけれど、1年にたった2回くらいです。みなさん、はんごうを知っていますか。そう、キャンプの時、ごはんをたく入れ物です。あの内側に、お皿のようものがついていますね。それに、おかゆを入れるのです。おかゆを1ぱい。おしるはじゃがいもを塩でたいたものを、はんごうのふたに1ぱい。これでおわりです。朝と晩は、パン150グラムだけです。これではとても力仕事はできません。
力仕事というと、丸太の家を作るしごともあります。丸太の下をけずり、みぞを作って積み重ねるのです。それがどんどん高くなるにつれて、重い丸太を高い所までかつぎ上げます。それを、あの食事しか与えられない兵隊は、どんなにふらふらになって働いたでしょう。
加藤さんは、ほりょの仲間たちと少しでもらくに仕事ができるように、みんなで考えました。たとえば、仕事に点数がついていて、125点の仕事をしたらお金をもらえるというのがあるのです。みんなが125点するのは無理です。それで、みんなが働いた分を一人が働いたことにします。そうしたらその日は、その人がお金をもらえます。次の日は別の人が同じようにしてお金をもらいます。そうやってみんな順にお金をもらうのです。そのようにしてもらったお金で、タバコやパンを買います。それが、せめてもの楽しみなのです。
ここでの生活で食べ物が少ないことは、命にかかわります。朝起きたら、となりのベッドの人がうえ死にしていることもあります。生きるためにぬすみをすることもあります。ある時加藤さんは、じゃがいもが、倉の中にいっぱいはいっているのを見つけて、大工をするふりをして倉に入り、こっそり盗んできました。そしてどっさりのジャガイモを、仲間みんなで分けて食べたのです。
きびしいほりょ生活の話は、きりがありません。高い2段ベッドには、ふちに、さくがついていません。夜中落ちたら、大けがをします。また、「せいけつ」とはとても言えない所です。ナンキン虫、シラミがいっぱいいて、日曜日にはシャツをぬいで、手でシラミをつぶします。そしておふろにはいりますが、おふろはドラムかんです。1回ザブンと入ったあと、おけに、一人一ぱいの水をもらう。それだけです。だいぶんたって、少しましなおふろができて、ほっとしましたが。
加藤さんの仕事はいろいろ変わりました。鉄道のレールをしく仕事もしました。冬はマイナス何十度の中で、ふきっさらしのあらしの中で、重いレールを運び、手は豆だらけでした。
冬には便所もまた、ほりょにとってつらいところでした。冬に、わた入れの服をたった1着だけもらっているのですが、これがみんなぼろぼろになるのです。なぜでしょう。ソ連では、便所の紙は使わないらしく、紙をもらえないのです。だから便所に行くたびに、わた入れのすそをちぎって、紙のかわりに使わねばなりません。だから、わた入れのすそがぼろぼろになってしまうわけです。それだけではありません。マイナス何十度の気温では、水分はあっという間にこおります。便所の大便がこおって、上へ上へ山のようにつみ上がり、しまいに先がとがります。それをだれかがたたきこわして、便所の裏へ捨てねばなりません。こおっている間はまだいいのです。春になってそれがとけると、もうたえられないにおいになる。これにほりょたちはなやまされるのです。
こうした、いつまで続くかわからないほりょ生活の間に、たくさんの日本人が死んでいきました。が、中でも、冬になくなった人たちはかわいそうです。マイナス何十度の土は、固くてコンクリートのようで、つるはしが入らないのです。お墓へうめようとしても、ほることもできません。どうにかして浅くうめた遺体(なくなった人)を、オオカミが引きずり出して食いちらします。しかたがないので、遺体は、ぐるぐる巻いてトラックにのせて、遠い所に運ばれます。雪が深くてトラックは何度も行き来ができないので、遺体を運ぶときに別の物も運びます。ある時は、遺体の山の真ん中に、病気になった人もいっしょに乗せて、遠くの病院まで運ばねばならないのです。たくさんの遺体といっしょにつれて行かれた病気の人も、どんなにおそろしくさびしかったことでしょう。

<ソ連兵>
これだけは知っておいてください。ソ連の兵隊は、けっして、おにのようにざんこくな人ではなかったと、加藤さんは言っていました。ほりょの日本人を見下したり、えらそうな態度をとることはなかったそうです。ほりょの代表が、「食事を多くしてください」とたのみに行ったときは、「私達の国もドイツにせめられ、そのときの戦争で食べ物が少なくなってしまったのだ。どうかがまんしてくれ。」という答えが返ってきました。あるソ連兵は、加藤さんに部屋のストーブをなおしてくれといい、お礼にパンをくれました。加藤さんのことを「カトウ、カトウ」と呼び、なかよくしてくれました。日本人がソ連人の家を修理すると、じょうずにするので、よくたのまれます。それでなかよくなりました。ある時は、ソ連人の家の仕事をしていたら、私のポケットに、そっとパンを入れてくれたこともありました。
加藤さん達は、仲間の間で、つらい毎日の中でも少しでも楽しいことをしようと、いろいろ工夫しました。さぎょう中に自分たちでマージャンのパイを作って、ポケットにかくし持って帰り、みんなでマージャンをしました。加藤さんは、パンをかけてしたときに、負けてばかりでパンを1か月間食べられなかったこともあったよと、わらいながら話してくれました。
このようなほりょ生活の、想像もつかない苦しさの中で、生き残れたのは元気な20才台だけ。30才以上の人や体の弱い人は、ほとんどが死んでしまいました。
(シベリアの日本人ほりょは107万人、そのうち34万人が死亡したといわれます)

<日本に帰る>
ほりょにされてから4年のち、加藤さんはとうとう、1800人の日本人といっしょに、舞鶴(まいずる)行きの船に乗りこみました。ついに帰れるのです。船が日本に近づき、なだらかな山なみが見えてきました。なんと青い、美しい山なのだろう。加藤さんはなみだが止まりませんでした。舞鶴港に着くと、かんげいの旗が立ち並んでいます。「とうとう私は帰ってきたんだ。」熱いものがむねにこみあげてきました。そこで加藤さんは、家族からの手紙を受け取りました。「おやじと姉さんが亡くなっていたんだよ。おやじと私は、兵隊に行く前にお酒を飲み交わし、半分飲んで残りの半分は、帰ったらいっしょに飲もうなと約束した、あのおやじが・・・。」加藤さんは、そこまで言うと、何かを思い出すように、だまって遠くを見つめていました。
加藤さんは最後に、「戦争は絶対いけない。毎日なきながら暮らしたんだよ、ぼくたちは。あの時代をふたたびくり返してはならない。心の底から私はそう思いますよ。」と、しずかに語ってくれました。

2018年2月3日土曜日

戦争体験者との懇談

2018年1月28日(日)緑が丘ルーテル教会で、戦争体験者の方を囲んで懇談をしました。
戦争体験者は、ルソン島で特攻隊員をされ、その後中国で敗戦、部下の朝鮮兵を命がけで守りながら、帰国されました。今は90歳を超え、お元気でおられます。
教会の牧師さん、小学生1人、大人4人の参加で、当時の戦闘の様子や、鉄砲の弾が飛び交う中にいた恐ろしさを語っていただきました。