自由が丘在住 90歳 加藤秀一(仮名)
<シベリア>
あなたの住んでいるところは、一番寒いとき何度くらいですか。シベリアというところは冬、マイナス何十度にもなります。おうちの冷蔵庫の冷とう庫どころではありません。その寒い寒いシベリアへ日本の兵隊達は、連れて行かれたのです。戦争が終わり、「日本へ帰れるのだぞ」と喜んだのはつかの間・・・
昭和18年、21歳で加藤さんは兵隊に行きました。今ならちょうど大学生のお兄ちゃんくらいの年ごろに、加藤さんは、中国の満州というところで、若い兵隊に軍隊を教える役をしました。
ある年の8月の訓練中、何気なしに空を見上げた加藤さんは、「あっ」と息をのみました。北の方から何だか見たことのない飛行機が飛んできます。ソ連の戦とう機です。ついにソ連のこうげきが始まったのです。
日本の軍隊は大いそぎで戦う準備をして、満州の中心のまち、牡丹江(ぼたんこう)へ向かいました。
<満州開拓団>
牡丹江に着くと、なんとおおぜいのお年寄りや女の人、子ども達が、汽車の屋根のない車りょうに乗っていました。きのうの晩からの雨で、みんなびしょぬれです。満州に住んでいた開拓団の人たちがソ連の攻撃からにげてきたのです。
開拓団というのは知っていますか。そのころ日本は、満州も自分のものにしました。その満州へ日本人は行って住みなさいとすすめたので、たくさんの日本人が満州へ行ったのです。それが満州開拓団です。
話はもどります。向こうからソ連の戦とう機が3機、飛んできました。そしてお年寄り、女の人、子どもばかりの車りょうめがけて、こうげきしたのです。「助けないと!」加藤さん達は思いました。けれども反げきできるような武器はありません。こうげきがおさまってから、大けがした子どもにほうたいを巻くのがやっとでした。
<ソ連軍の攻撃の中で>
9月中ごろ、たこつぼ掘りをしました。たこつぼとは、敵から見えないよう穴を掘り、戦車の通る道にばくだんをしかけます。そのためのあなを「たこつぼ」といいます。
たこつぼをほったあと、食事が出されました。けれど兵隊たちは、よっぽどつかれたんでしょう、物も言わず地べたにすわりこんだままです。加藤さんは、どなりもしかりもせず、だまって兵隊達におにぎりを作って食べさせました。
次の日からは、夕方くらくなると、くわ畑にかくれ、敵の戦車が来るのを待ち、来たらばくだんを持ったまま飛び込む作戦を続けました。
<戦争が終わった>
9月15日のことです。天皇陛下からの「戦争は終わった」という無線を聞いたのです。
さあ、戦争が終わったとなると、多くの兵隊がてんで勝手に帰ってしまいました。ソ連がこうげきしてくるので早く逃げたいのです。加藤さんの部隊も、たった3人しか残っていません。その3人に加藤さんは、こう言い聞かせました。「君たちな、命をむだにしてはいけないぞ。敵の戦車にも、むやみに飛び込んではいけない。お国のために死ぬのはいつでもできるのだから。」
それからも、命のきけんにあうことは何度もありました。
隊長から命令されて、ていさつする間に、元いた場所がばくげきされ、おおぜい人が死にました。おなかをすかせて畑のきゅうりばかり食べていました。食事のしたくをし、さあ食べようという時に、またこうげきです。仲間がもう少しで撃たれそうになり、腰にさしていたたまが銃剣にあたって、死なずに助かりました。
それからは毎晩、雨がふるので、屋根を作ってしのぎました。なれない食べ物で、やはり下痢ばかりの毎日です。
線路をこえる時に、またソ連軍の攻撃がありました。すきを見て走って、谷へおりていったその時、一人の日本人がこちらに向かって何か叫んでいます。
「おーい、おまえたち。日本に帰れるぞ!銃をそこに捨てて、出てこい!」
日本に帰る?何とうれしいことだ。夢にまで見た家族に会えるんだ。加藤さん達は大喜びで、持っていた食料をお腹いっぱい食べ、重い銃は全部捨てました。
けれども、谷から出た加藤さん達をとりかこんだのは、銃を持ったソ連軍でした。さっき叫んだのは、ソ連のほりょになった日本人だったのです。そうか、だまされたのだ!加藤さん達は、全員ソ連軍につかまり、ほりょになってしまったのです。
<シベリア抑留>
がっくりして希望をうしなった加藤さんは、ソ連軍から身体検査を受け、あわのおかゆを出されたのをむりやり食べ、下痢をくりかえし、夜になると遠い所までへ歩かされました。ソ連兵につれられ、ひたすら歩き続け、夜になると、駅のがらんとした冷たい石だたみの上で寝ました。満州は、夏も終わりになると、日本とはちがってひどい寒さです。おまけに、兵隊はうすい夏服のままでした。やっとこさ到着したのは、鉄道の駅員のとまる所です。そこで1泊し、よく朝、牡丹江に着きました。満州のあちこちから、同じようにほりょになった日本兵が、いっぱい集められていました。ほりょは、1000人ひとまとめにされ、牛小屋の2階に連れていかれました。みじめな気持ちで、ほし草やわらの上に横になっていますと、夜中にどこからか兵隊さんが、「シナの夜」という歌を歌っています。そのころよくはやった、中国ふうの静かな歌です。ほりょになった兵隊さんは、いったいどんな思いでこの歌をきいたのでしょう。そしてつぎの日に、加藤さん達はシベリアに旅立ちました。
<ほりょ生活>
何日かたって、シベリアに着きました。ほりょ生活が始まります。住む場所として与えられたのは、ぼろぼろの建物です。食堂にはテーブルもいすもなく、窓はこわれていました。日本人の兵隊は、「だれか家具が作れる者いないか」、「鍛冶屋さんができる者は」、「左官は、」とよびかけ、みんなで家を建てることにしました。そして苦労して何とか自分達が住めるような所ができました。
ほりょの兵隊はどんなものを食べたのでしょう。馬のえさにするコウリャン、大豆、小麦、あわ、ひえ等のおかゆです。お米のおかゆもありますけれど、1年にたった2回くらいです。みなさん、はんごうを知っていますか。そう、キャンプの時、ごはんをたく入れ物です。あの内側に、お皿のようものがついていますね。それに、おかゆを入れるのです。おかゆを1ぱい。おしるはじゃがいもを塩でたいたものを、はんごうのふたに1ぱい。これでおわりです。朝と晩は、パン150グラムだけです。これではとても力仕事はできません。
力仕事というと、丸太の家を作るしごともあります。丸太の下をけずり、みぞを作って積み重ねるのです。それがどんどん高くなるにつれて、重い丸太を高い所までかつぎ上げます。それを、あの食事しか与えられない兵隊は、どんなにふらふらになって働いたでしょう。
加藤さんは、ほりょの仲間たちと少しでもらくに仕事ができるように、みんなで考えました。たとえば、仕事に点数がついていて、125点の仕事をしたらお金をもらえるというのがあるのです。みんなが125点するのは無理です。それで、みんなが働いた分を一人が働いたことにします。そうしたらその日は、その人がお金をもらえます。次の日は別の人が同じようにしてお金をもらいます。そうやってみんな順にお金をもらうのです。そのようにしてもらったお金で、タバコやパンを買います。それが、せめてもの楽しみなのです。
ここでの生活で食べ物が少ないことは、命にかかわります。朝起きたら、となりのベッドの人がうえ死にしていることもあります。生きるためにぬすみをすることもあります。ある時加藤さんは、じゃがいもが、倉の中にいっぱいはいっているのを見つけて、大工をするふりをして倉に入り、こっそり盗んできました。そしてどっさりのジャガイモを、仲間みんなで分けて食べたのです。
きびしいほりょ生活の話は、きりがありません。高い2段ベッドには、ふちに、さくがついていません。夜中落ちたら、大けがをします。また、「せいけつ」とはとても言えない所です。ナンキン虫、シラミがいっぱいいて、日曜日にはシャツをぬいで、手でシラミをつぶします。そしておふろにはいりますが、おふろはドラムかんです。1回ザブンと入ったあと、おけに、一人一ぱいの水をもらう。それだけです。だいぶんたって、少しましなおふろができて、ほっとしましたが。
加藤さんの仕事はいろいろ変わりました。鉄道のレールをしく仕事もしました。冬はマイナス何十度の中で、ふきっさらしのあらしの中で、重いレールを運び、手は豆だらけでした。
冬には便所もまた、ほりょにとってつらいところでした。冬に、わた入れの服をたった1着だけもらっているのですが、これがみんなぼろぼろになるのです。なぜでしょう。ソ連では、便所の紙は使わないらしく、紙をもらえないのです。だから便所に行くたびに、わた入れのすそをちぎって、紙のかわりに使わねばなりません。だから、わた入れのすそがぼろぼろになってしまうわけです。それだけではありません。マイナス何十度の気温では、水分はあっという間にこおります。便所の大便がこおって、上へ上へ山のようにつみ上がり、しまいに先がとがります。それをだれかがたたきこわして、便所の裏へ捨てねばなりません。こおっている間はまだいいのです。春になってそれがとけると、もうたえられないにおいになる。これにほりょたちはなやまされるのです。
こうした、いつまで続くかわからないほりょ生活の間に、たくさんの日本人が死んでいきました。が、中でも、冬になくなった人たちはかわいそうです。マイナス何十度の土は、固くてコンクリートのようで、つるはしが入らないのです。お墓へうめようとしても、ほることもできません。どうにかして浅くうめた遺体(なくなった人)を、オオカミが引きずり出して食いちらします。しかたがないので、遺体は、ぐるぐる巻いてトラックにのせて、遠い所に運ばれます。雪が深くてトラックは何度も行き来ができないので、遺体を運ぶときに別の物も運びます。ある時は、遺体の山の真ん中に、病気になった人もいっしょに乗せて、遠くの病院まで運ばねばならないのです。たくさんの遺体といっしょにつれて行かれた病気の人も、どんなにおそろしくさびしかったことでしょう。
<ソ連兵>
これだけは知っておいてください。ソ連の兵隊は、けっして、おにのようにざんこくな人ではなかったと、加藤さんは言っていました。ほりょの日本人を見下したり、えらそうな態度をとることはなかったそうです。ほりょの代表が、「食事を多くしてください」とたのみに行ったときは、「私達の国もドイツにせめられ、そのときの戦争で食べ物が少なくなってしまったのだ。どうかがまんしてくれ。」という答えが返ってきました。あるソ連兵は、加藤さんに部屋のストーブをなおしてくれといい、お礼にパンをくれました。加藤さんのことを「カトウ、カトウ」と呼び、なかよくしてくれました。日本人がソ連人の家を修理すると、じょうずにするので、よくたのまれます。それでなかよくなりました。ある時は、ソ連人の家の仕事をしていたら、私のポケットに、そっとパンを入れてくれたこともありました。
加藤さん達は、仲間の間で、つらい毎日の中でも少しでも楽しいことをしようと、いろいろ工夫しました。さぎょう中に自分たちでマージャンのパイを作って、ポケットにかくし持って帰り、みんなでマージャンをしました。加藤さんは、パンをかけてしたときに、負けてばかりでパンを1か月間食べられなかったこともあったよと、わらいながら話してくれました。
このようなほりょ生活の、想像もつかない苦しさの中で、生き残れたのは元気な20才台だけ。30才以上の人や体の弱い人は、ほとんどが死んでしまいました。
(シベリアの日本人ほりょは107万人、そのうち34万人が死亡したといわれます)
<日本に帰る>
ほりょにされてから4年のち、加藤さんはとうとう、1800人の日本人といっしょに、舞鶴(まいずる)行きの船に乗りこみました。ついに帰れるのです。船が日本に近づき、なだらかな山なみが見えてきました。なんと青い、美しい山なのだろう。加藤さんはなみだが止まりませんでした。舞鶴港に着くと、かんげいの旗が立ち並んでいます。「とうとう私は帰ってきたんだ。」熱いものがむねにこみあげてきました。そこで加藤さんは、家族からの手紙を受け取りました。「おやじと姉さんが亡くなっていたんだよ。おやじと私は、兵隊に行く前にお酒を飲み交わし、半分飲んで残りの半分は、帰ったらいっしょに飲もうなと約束した、あのおやじが・・・。」加藤さんは、そこまで言うと、何かを思い出すように、だまって遠くを見つめていました。
加藤さんは最後に、「戦争は絶対いけない。毎日なきながら暮らしたんだよ、ぼくたちは。あの時代をふたたびくり返してはならない。心の底から私はそう思いますよ。」と、しずかに語ってくれました。