2018年5月27日日曜日

「三木の中心で平和を叫ぶ」
街頭で思いのたけを叫ぶのは、気持ちいいものです。道路脇で手をふってくれる人、「がんばってください。」と声をかける人に、はげまされます。一緒に歩きましょう!

2018年5月20日日曜日

第5回戦争展実行委員会を、5月24日木曜日午後7時から三木市中央公民館にて行います。

戦争体験 南方戦線

戦争体験 南方戦線
(この記録は三木市立図書館所蔵の、「十四歳の兵隊さん―父の太平洋戦争記録」から、ご本人の許可を得て収録したものです。)
2018.5.19収録
三木市  89歳 男性
父72歳の誕生日の夜、私達に語ってくれた自らの戦争体験です。
父は戦後結婚し、私と弟が生まれました。しかし語り継ぐべき子どもに私達は恵まれませんでしたので、この話がいつか、名も知らぬ若者のところまで伝わることを祈って、父の話(わずか14歳の少年の半生)をお話します。
父は先生に陸軍を勧められ、陸軍幼年学校の試験を受けたがかなわず、海軍の通信兵を受験し、合格しました。
地元の人達の「万歳、万歳!」に送られ出征しました。14歳と7か月です。射撃訓練で銃をかつぐのにもふらふらしていました。
「・・・死ぬほどの目にあったなあ。」父は述懐していました。
「・・・えらい目にあったのは終戦前の一年間やった。食べ物はほとんど無かった。周りの人間は次々と餓死していった。そんな中にいたら、死んだ人にさそわれるようにあっけなく死ぬ人と、何がなんでも生きることにしがみつく人に別れるんや。人間は追い込まれたときに本性をあらわす。中にはハエもヘビもよう食わんと言って死ぬ人もあった。
待っていたら日本国から食料が届くというのとちがうで。負けて負けて、ただただ逃げるだけやからなあ・・・
ある時防空壕を掘っていると、雨が降ってきて土砂がどっとくずれてきた。壕の入り口が埋まってしまい、二人が生き埋めになった。スコップなどの道具がなかったので大変な思いをして二人をひっぱり出し、すぐに人工呼吸をしたが、一人は死んでしまった。「助けてくれ」といった方の者の口に土が入り、気道がふさがれて死に、叫ばなかった方の人は意識を失ったが助かったんや。
ある時は、食料を盗んだ者が刀で首を切られた。その人間が首のないまま走って逃げていくのを私は見た・・・
フィリピンの原住民が食べていた芋の葉や何でもかでも食べる。日本の芋とちがって味が全くしない。それでも食わんと死ぬ。原住民の食料をどろぼうするんや。わからんように盗まんとアメリカ軍に知られてしまう。ジャングルに隠れていたら空襲でジャングルの草木と一緒に焼けこげになってしまうので、村に入らずに村の手前で盗むんや。
ある時、日本軍が戦車をジャングルに隠しておいたのが、アメリカ軍の機銃掃射で撃たれた。辺り一帯に燃え広がって、かくれていた父の部隊も見つかってしまった。
早く戦争が終わってほしかった。日本の飛行機はただの一機も飛ばなくなっていた。負け戦なのはわかっていた。
 水が欲しくてたまらなかった。山にたまり水があり、きれいな水に見えたので飲んだ。とたんに下痢をおこした。野宿と雨とで体は冷え、便所はない。顔も洗わないのでこけが生えていた。火をおこすには、装備されていたレンズを虫めがねにして、枯れ葉に太陽の光を集めて燃やす。その火で川の水をわかした。けれども空腹を満たすことができなかった。芋をいくら食べても、盗んだ果物をいくら食べてもだめだった。バナナやヤシはあったが。そして、一番肝心な塩分がとれなかったので、ついに歩けなくなった。部隊の全員、ひざがガクンガクンとなり、地面に這いつくばり、前へ進めないのだ。「どうなったんや、足よ、しっかりせい!」・・・私らはまともに戦線から逃げ出すことさえできなくなったのだ。そんな日が続いたある日、川で顔を洗っていた時だった。川の水が温かい。温泉だ!温泉がわいていたのだ。温泉の水を一日かけて炊いた。全部蒸発した後に塩が残った。黒い塩だった。それをなめながら這うように進んだ。元通り歩けるようにはならなかったが。
たくさんの兵隊が栄養失調で呆けたようになり、敵の飛行機が低空飛行しているのに、口をポカーンと開けたまま立っている。生きていても顔は死人のような兵隊もたくさん見た。周りの者が「入院させてやれ。」という。病院はない。休ませてやれという意味だ。休ませても一日くらいでたいていは死んでしまう。眠る行為が死につながるのだ。
山ねずみを見つけた時は、取り合いになった。4本の足を我が我がと引っ張り合うのだ。けれどもケンカするほどの体力はとっくに残っていなかった。
そんな中でも要領のいい者は、いる。私だ。同年兵の主計兵が「チーズは良いよ」と教えてくれた。チーズは腐らない。それを将校が隠し持っていたのを盗みに入ったのだ。番兵が新米なので、そこへ信頼できる少数で切り込んだ。うまく話をしている間に入り、拳銃を持った見張りの兵に交渉の末、中からチーズを2缶握らせてくれた。それをスプーンで一日2さじ、こっそり食べながら生きつないだ。また、兵隊が将校に言われ、何かリュックに背負っている。多分重い通信機ではないなと勘が働く。休憩で寝ている間にこっそりと開ける。食料だ。周りの者で分け合う。背負っている兵にも分けた。
 生きるために日本兵どうし殺し合うこともあった。いかんけれども、戦争やから。生きていくためには仕方がなかった。
「殺さなかったよ、お父さんは。殺していたら、今こんな幸せあらへん。」
父が言った。ある時、汁の中にゴミほどの小さな肉片のようなものが浮いていた。その頃なぜか部隊の将校が一人、姿を消していた。事実はわからん、お父さんにも。・・・汁は一気に飲み干した。
またのどが無性にかわき、たまり水を飲み、ひどい下痢をおこした。血便、粘液、膿のような便。それでも逃げなければならない。何度も「ケツ割ろ(降伏しようか)」と思った。ケツ割ったらおしまいや。捕虜になるか殺されるかや。日本兵は「捕虜は殺される」と教え込まれていた。
 「薬になるかもしれない。」昔飲んだ正露丸の色を思い出し、たき火のあとのカラ消しをかじった。それがきいた。膿の便が止まった!
 アメリカ軍が日本兵に降伏を勧めて「無意味な戦争をしているのに気づきませんか。白旗をあげてください。国際法に基づいて身の安全を守ります。」と言ってきた。とんでもないと思っていた。日本兵はそういう教育は受けていなかったのだ。
 その頃には下痢の症状も少し良くなっていて、ルソン島の北端アパリまで逃げてきた。途中、同郷の兵士に「水をくれ」とせがまれた。彼はひん死だった。けれど水場まで3時間はかかる。私にはできなかった。私もいつかこのまま行き倒れて死ぬだろう。同じ部隊の2、3百人はほとんど死んでしまった。ついこの間まで、「やあ」、「おう」と言葉を交わした仲間が。ほとんどが餓死であった。「水くれー」という兵士を見過ごすことしかできず、それどころか倒れた兵士の息がまだあるうちに、靴をはがし、上着をはぎ取った。ひどいことを・・・と思ったが、皆、生きるためだ。
 数日後、兵士の体は水ぶくれし、うじがわいていた。さらに経過したものは白骨化していく。そんな屍をいくつも見た。見ながらなお逃げた。だがついに、その日は来た。
・・・捕虜になって、マニラ郊外で約1年、アメリカ軍に拘留された。そして昭和21年10月10日、とうとう私は帰国した。けれども思いがけなく捕虜収容所では支配的な強要もなかった。暴力的なふるまいもなかった。ただし、規則を破ると檻に入れられ、絶食させられた。
 
―父は帰国後、仕事はすぐにはなかったが、伯父を尋ねて行き、実の父のように暖かく迎え入れられ、伯父と伯父の息子、父の3人で暮らすことになった。仕事は力仕事できつかったが、10年後、店を持たせてもらい、結婚と同時に家も持たせてもらい、幸せな家庭を築いた。後に地元業者の組合を発足させ、永年、その代表を勤めて勲章を授与された。
父が89歳になった今、人生で一番嬉しかった日はと聞くと、
「戦争が終わって日本に帰ってきた日」
と答える。