2018年1月25日木曜日
2018年1月24日水曜日
満州引き揚げ
満州引き揚げ
昭和20年、日本は敗戦し、満州に移住していた日本人はもはやそこに居られなくなりました。北からはソ連が侵攻してくる中を、ほとんど非戦闘員である女性、老人ばかりの集団で帰国してきました。
西脇市谷町在住 78歳
取材日 2015年7月5日
<親が親でなくなる>
昭和14年、2歳の私は九州宮崎から満州に移り住みました。とにかく雪の多いところでした。家の中へは屋根から入らなければならないような所でした。
昭和2年、戦争に負け、日本に帰らねばならなくなりました。それは悲惨なことばかりでした。広大な中国大陸の野山を、何十日かかるかもわからず歩き続けなければなりません。もちろん食べ物を持ってくる余裕などありません。「7歳以下の子どもは(満州に)残してほしい。」と上の人から言われます。小さい子をつれて逃げて帰るのは不可能です。山のふもとに大勢の子どもが捨てられました。乳飲み子はお乳を飲んだ後、寝ている間に、小さな子どもは食べ物を与えて喜んで食べているすきに、親は心を鬼にして子どもをおいていかねばなりません。私は7歳でしたので、捨てられるところでしたが、捨てられてはかなわんと思い、必死の思いでついて帰りました。何がなんでも集団の先頭にくっついて行きました。迷子と間違われることもたびたびでした。
今も中国残留孤児のニュースを見るたびに、「私もその一人であったかもしれない」という思いで、一人ひとりの名前と住所を真剣に見ています。
「親が親でなくなる、人間が人間でなくなる」戦争、今も戦争の計り知れない怖さをひしひしと感じます。
引き揚げて帰る間、ソ連軍に見つからないように昼間はかくれ、夜中に兵隊さんについてもらって歩くのです。女の子は強姦されるので、女だとわからないように姉は顔に土をいっぱい塗り、坊主頭にしていました。
私達は何十日もずっと歩きました。山の中では何か拾って食べたりしました。お腹が空いて空いて、遠くの野山に黄色い葉っぱがあると、それがかぼちゃに見えるのです。水は、馬車道にできる水たまりの水をすくって飲みました。ぼうふらが、その中でぴょんぴょん泳いでいました。道ばたに馬が倒れて死んでいると、それは大事な食料です。その馬の肉をそいで、缶詰のカンに入れ、そこに水を入れて炊いて食べました。じゃがいも畑では、カラカラになって真っ黒で薄くなったいもを取ってきます。中をあけたらでんぷんのかたまりが出てきます。それもまた缶詰のカンにいれて炊き、団子にして食べるのです。畑にできる食用のほおずきもよく食べました。
戦争に負ける前、満州で暮らしていたときは、政府から結構広い土地をもらっていて、中国人を二人やとい、裕福に暮らしていました。けれども引き揚げて来るときには、何も持って帰ってくることができませんでした。
兄はそのころマラリアにかかっていました。のちになって「あの時僕はいったいどこをどうやって帰ってきたか全くわからない。」と、言っていました。
牡丹江(ぼたんこう)という町にやっと着き、そこから少しだけ汽車に乘りました。けれどもものすごい人数です。ぎゅうぎゅうで立つこともすわることもできないくらい。屋根の上にも人がいっぱいです。トイレにも行けないので、その場でするのです。上からおしっこが流れ落ちてきます。突然、飛行機が汽車をめがけて爆撃してきました。「みんな降りて!」誰かがさけぶ声と同時に、みんな汽車から飛び降りました。、草むらの中へ隠れると、兵隊さんが布団のような物を持って上からおおいかぶさってくれます。しばらくして起きてみたら、その兵隊さんの指が吹っ飛んでいて。周りは死体でいっぱい。無我夢中で私は死体を踏み越え踏み越え、逃げました。
この時いったいどれだけの人が亡くなったのでしょう。
<長春にて>
それでも誰か助けてくれる人もあるのですね。新京(今の長春)についた時には、私達を収容してくれる人がありました。広い部屋で子ども達がぎっしりと横になって寝かされました。
けれども、新京に着いたとたんに母親とおばは倒れました。それまでの苦労がたたったのでしょう。子どもに食べさせるために、自分は十分に食べなかったのだと思います。栄養失調でした。おばと母親が寝ている顔の上を、たくさんのシラミが別のところへざーっと移動していくのが見えました。シラミはわかるのでしょう。翌日、二人は亡くなりました。おばと母は、前の畑に穴を掘って埋められました。とうとう私たち子どもだけが残されました。父は戦争にとられ、下に7人いた兄弟をみんな栄養失調で亡くし、兄と姉と私、同じように親を亡くした従兄、身内は子ども四人だけになってしまいました。
<施設に収容される>
その後、私たちは天理教の人に助けられました。その人の奥さんの着物をもんぺに作り直して着せてもらい、天理教の教会に連れて行ってもらい、施設に収容してもらいました。その上、学校にまで行かせてもらい、1年間くらい学校に通いました。一度私は、危うく人さらいに会うところでした。学校の帰り道で、下駄の鼻緒が切れたので裸足でいたら、中国の人が「直してあげる」といいます。ついていったら、「ちょっと待っていて」と言われ、待っていても戻ってこないのです。帰ってからそのことを言うと、「あんた、それは、あんたが売られるところだったんだよ」と。ある時は物売りもしました。怖い目にあったこともあります。ある時私がマッチを売り、兄は鯛焼きのようなまんじゅうを売っていたら、中国人が襲ってきます。必死で逃げました。足下に死体があったのを私は踏み越えて帰ってきました。
<日本へ>
その後、おそらく天理教の人達でしょう。港まで連れていってもらい、船にのって福岡の八幡へ帰ってきました。(引き揚げ団の写真を見ながら)私たちはこんなきれいな格好をしていませんでしたよ。もうそれはひどい格好をしていました。帰ってきたときには私はすでに3年生になっていました。そして八幡の孤児院に入れられました。
そのころラジオや新聞に「尋ね人」というのがありました。引き揚げ者の元の住所などを放送で流し、聞いていた身内が迎えに来るというものです。でも満州で暮らしていた私たち姉妹は、親に住所を教えてもらっていませんでした。幸い、一緒にいた従兄が住所を覚えていましたので、叔父が宮崎から従兄を迎えに来たのです。叔父は、従兄だけを連れて帰りかけたのですが、従兄が「まだ向こうに(身内が)いる」と言い、私たちの名前を言ってくれました。叔父は私の名前を覚えていました。そしてもう一度、私たちを連れに戻ってくれたのです。
叔父の家には10人もの子どもがいました。食べ物が足りません。大きな釜にお米一握りだけを入れて、あとお水でおかゆにして、そこへ、芋のつるやさつまいもを小さく切ったのを入れて、さらさらのおかゆにしたもの、それが食事です。お椀にいれてもらったおかゆには、ごはんが3つぶくらいしか入っていません。おかわりをしたくても、子どもがいっぱいなのであきらめるしかありません。
<もらわれて>
2か月ほどそこでお世話になり、その後私は、父親の同級生で子どものない家にもらわれて行きました。姉は父親の弟の家に子守としてもらわれて行き、兄は小学校を卒業していたので郵便局で働くことになり、兄弟はばらばらに別れていきました。
もらわれて行った私は、初めてそこで白いごはんを食べさせてもらいました。もう目が回るほど嬉しかった。でも少しの間だけでした。そこの家に子どもができたので、私は子守りをしないと学校へ行かせてもらえません。子どもを背負って学校へ行ったり、草取り、芋堀り、近所の仕事に行かされたりで、ほとんど学校へ行けていません。けれどもなんとか中学校の卒業証書がもらえました。そしてそこの人に「働きに行かせてください。」と頼むのですが、駄目でした。私は、家の中での貴重な働き手だったので、外へ出してもらえないのです。
父は敗戦後、シベリアへ抑留されていました。私が五年の時に、幸いにも帰ってきていました。けれどもうちの家は、満州に移住する前に宮崎の家を売り払っているので無一物でした。ですから父は、もらわれていった家から私をもらいうけることはできませんでした。帰りたかったけれど。でも私は父親の顔を覚えていませんでした。父は私が6歳の時に戦争にとられていったのです。のちに父は再婚して女の子が一人生まれていました。
<夜逃げ>
ついに私は15歳の時に夜逃げをしました。兄に1500円のお金を借り、加古川の日毛(ニッケ)の会社にいた姉を頼って。夜の11時頃家を出て、加古川まで夜行で二十何時間かかり、明くる日の夜8時ごろ加古川駅に着きました。私は、初めて一人で汽車に乗りました。修学旅行にも行かせてもらえなかったので。1400円の乗車賃を払い、おつり100円をにぎりしめていました。時計も持っていないので今何時かもわかりません。お腹が空けば、停車のアナウンスで「5分間止まります」の声を待ち構えるようにし、急いで降りて水道の水を飲んでまたとび乗る、ということを繰り返しました。100円は最後まで使わないでおこうと思ったのです。こうしてやっと、九州宮崎の日向から加古川まで来ました。
<姉を求めて>
一方、兄が姉に電報を打ってくれていたので、姉は駅まで迎えに来てくれていました。ところが私はその姉とは小学校3年生の時、引き揚げてきて兄弟ばらばらに引き取られた時に別れたきりです。駅の階段のところに誰か女の人が、パーマヘヤ(昭和28年頃流行っていた)の姿で立っていました。その人が「葉子とちがうの?」といいます。思わず「はい、そうですけど」と言うと、そのパーマヘヤの人は叫びました。「姉ちゃんや!」
姉は「何も食べてないんやろ。」と、駅前にあったうどん屋さんに連れて行ってくれました。そのときの20円のすうどんを、私は(世の中にこんなおいしいものがあるのかしら)と思って食べたのです。そして、姉のニッケの宿舎に一晩泊めさせてもらうことになりました。
早速私は仕事を探さねばなりません。不況が始まっていて、ニッケには働く場がありません。姉の婚約者が「西脇の織物工場でなら働けるから行ってみよう。」と、仕事を休んで連れて行ってくれ、行ったその日から住み込みで働くことになりました。勤めは大変でした。休みは2か月に1回位の休暇だけで、朝6時から晩の8時、9時、ときには12時まで働きました。1時間7円のお給料ですが、食事付きで住むところもあるのが何よりでした。そこで私は一生懸命働きました。
<取り戻した幸せ>
それから23歳の時に、縁があって富山県の人と結婚しました。子どもが二人生まれ、それから今まで54年間、西脇の小さな村で幸せに暮らしています。
悲惨な戦争をくぐりぬけてきて、学校には行けなかったけれど、今では本も新聞も読んでいます。村にはよそ者として入ってきたけれど、そこでたくさんの人と仲良くでき、村中のだれとでも話ができるようになりました。村で老人会を立ち上げることもできました。
結婚の支度も自分で働いたお金です。とにかく60歳まではと思い、必死で働きました。それからは私の人生だと思い、今は水泳や体操をして充実しています。七人家族で三人の孫と外孫が二人、幸せに暮らしています。
今でも戦争の報道にはすぐ目が行きます。沖縄の人たちなどの苦労も、手に取るようにわかり、胸が痛みます。戦争は絶対おこしてはだめです。
2018年1月21日日曜日
活動報告
2017年8月6日(日)13時~
平和集会「へいわっていいな」に、戦争体験記の紙芝居を発表。(於・三木市立市民活動センター)
朗読のお手伝いを募ると7人の参加があり、当日は約20人の大人、子どもが観て下さいました。
2017年10月29日(日)12時~ 於三木市緑が丘ルーテル教会
日曜礼拝後、紙芝居を発表しました。信者の方々を中心に約10人が観て下さいました。
平和集会「へいわっていいな」に、戦争体験記の紙芝居を発表。(於・三木市立市民活動センター)
朗読のお手伝いを募ると7人の参加があり、当日は約20人の大人、子どもが観て下さいました。
2017年10月29日(日)12時~ 於三木市緑が丘ルーテル教会
日曜礼拝後、紙芝居を発表しました。信者の方々を中心に約10人が観て下さいました。
2018年1月20日土曜日
2018年1月14日日曜日
2017年戦争展
2017年度は8月24日~8月29日、三木市役所みっきぃホールで開催しました。
正面にはいっぱいの花 花 花・・・
そして最近発刊された絵本「だれのこどももころさない」の題字、絵本の中のことばが書かれています。
平和への熱い思いよ、伝われ!
正面にはいっぱいの花 花 花・・・
そして最近発刊された絵本「だれのこどももころさない」の題字、絵本の中のことばが書かれています。
平和への熱い思いよ、伝われ!
紙芝居を作りました
特攻隊に入り、その後中国からの引き揚げの体験をされた方の体験をもとに、「いろんな人に体験を知ってもらいたい。」と、紙芝居づくりに取り組みました。
2017年5月~7月たくさんの方の手を借りて、紙芝居をつくりました。絵を描く人、文を考える人、朗読する人・・・
女性グループに製作応援を呼びかけたら4人の方々が手伝いに来て下さいました。ありがとう!
絵の得意な人に、特攻機をネットで調べて描いてもらい・・・
できあがり。絵を描くために当時のことをたくさん調べて、勉強になった!
2017年5月~7月たくさんの方の手を借りて、紙芝居をつくりました。絵を描く人、文を考える人、朗読する人・・・
女性グループに製作応援を呼びかけたら4人の方々が手伝いに来て下さいました。ありがとう!
絵の得意な人に、特攻機をネットで調べて描いてもらい・・・
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