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平和のための戦争展・三木
平和運動に携わっている兵庫県三木市の市民が、毎年企画を持ち寄って開催している取り組みです。
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千島列島従軍とシベリア抑留記
よかわ歴史サークルが作成した「吉川町の歴史」より2018年6月19日転記
①
ソ連侵攻
昭和19年、赤紙召集で和歌山重砲隊に入隊した。北海道から北千島へ。
北千島では、B29の空襲が定期的にあり、多くの被害をうけた。また米戦艦の艦砲射撃で、島は砲撃の海と化し、海軍基地は壊滅した。おびただしい負傷者と死者が出た。
8月15日の終戦のラジオ放送は、ラジオも無線もなく兵達は知るよしもなかった。翌朝の空襲と艦砲射撃は、米軍ではなくカムチャッカ方面からであった。ソ連が領地確保のため攻撃してきたのである。ソ連からの攻撃は日一日と激しくなった。満州からの応援部隊も、朝送って昼には全滅である。
艦砲射撃をバックにソ連軍は上陸し、陸上攻撃を始め、じりじりと奥地へ進んだ。白旗を揚げた軍使も皆殺害された、ソ連は交渉の余地も示さず、いよいよ私達の陣地へ向かってきた。私達はいざとなれば手榴弾で自爆する覚悟でいた。
内地は終戦を迎えているのに、我々は馬鹿げた犬死にをするのかと思うと無念でならなかった。
紙一重のところで交渉が成って停戦になった。やれやれであった。
日本兵は占守島の飛行場に終結させられ、武装解除を命じられた。軍用ナイフ1本までの武装解除である。そして弾薬などの爆破、戦場の整理、ソ連兵駐留の兵舎の建設を命じられた。食料の給与はなかった。、私達はあちこちに散乱している日本軍の食料や、漁場で採ったサケマスの缶詰や塩物の食べ荒らされた物、野積みになったままの物を炊さんした。
そして東京ダモイの言葉にだまされながら、12月まで戦場整理が続いた。
② 東京ダモイ(東京へ帰る、帰還する)
いよいよ東京へ帰るということで、持てるだけの装具を持ちソ連船に乗り込んだ。ところが、である。どうもおかしい。3か月ほど経てば北海道に着陸するはずなのに、どんどん南西に進んでいる。そのうち皆、おかしいなあと思い始めた。やがて近づいてきた陸地は、日本では見慣れない雪の山並みである。岸壁に船を横付けし私達は下船していった。日は傾き、寒々とした原野が目の前に広がっている。どういうことだ。
後にわかったが、そこは抑留された日本兵が作ったナホトカ港の岸壁だった。
だまされたのだ。待ちに待った「東京ダモイ」は策略だった。この地でよもや命果てることになるかもしれないとは、誰も思っていなかった。
一夜明け、思い装具を身につけ、どこへ行くともしれない雪中行軍である。絶望感と疲労で重い足を引きずり、ただ歩くのみだった。眠りながら人の間にはさまれて歩いているときもあった。力尽き雪中に倒れる者もあった。ここで眠ったら死ぬぞと引き起こし、励ましながら歩いた。やっとの事で名も知らぬ山中の小屋にたどり着いた。
1920年、シベリアの寒地での生活がはじまったのである。
➅シベリア抑留生活
木を切る
天然林の木を切る作業を一冬させられる。栄養不足と寒さ、重労働で疲れ、収容所では何の楽しみもなく、ただ寝るだけの生活だった。零下30度の厳寒、辺り一面の銀世界、深い原始林の中での作業である。仕事はノールマといって各人に課せられた仕事量がある。原始林の高い木を、2メートルほどののこぎりで二人一組でやっとのことで切ると、大木は大きな音を立てて倒れる。それが頭上に落ちてくるのをさけて雪中、重い足を引きずりながら逃げる。逃げ切れず命を落とした者もあった。寒さをしのいでたき火をしようとしたが、シベリアの凍土を溶かすのに、半日火をたいても30センチの深さがやっとである。
便所のふん塔
きびしい寒さは空気も凍ると言われている。防寒帽に息がかかり、それが凍って霜やつららのようになった。
便所の便は積み重なってふんの塔になる。便所を使う時は鉄棒でカンカンとこわさなければ使えない。こわす時にきたない粉が飛び散り、何ともいやなものである。
シラミと南京虫
衰弱している体に追い打ちをかけるのは、シラミと南京虫である。風呂はなく、シャワーを月1回浴びる。その間に下着を熱で消毒しシラミを殺す。しかしいくら洗濯してもつぎ目に残り、乾かして着る頃に生き返って体中かゆくなる。木のベッドの隙間で大量に繁殖する。寝ている間に血を吸って太る。大きいのは大豆くらいになる。つぶすとくさいにおいと血のあとがつき、しまつに負えない。抑留生活で何より悩まされた虫である。
ラーゲル(収容所)
冬が過ぎ伐採作業が終わり、我々の部隊はアルチョングレスという田舎町へ下りた。部隊によれば、炭鉱へ行き落盤で死ぬ者もあると聞いた。ロシア人も一緒に暮らしているが、日本人の分のノールマが次第に厳しくなってきた。ラーゲル内で炊事兵や監督がピンハネをするのもあった。また仕事によって、いくら働いてもノールマが一向に上がらないところもあった。特に石積み、採石場の石の掘り出しが過酷であった。
ついに我々はラーゲル内で団結ストをした。ロシア兵士が銃を持ってラーゲルを取り囲んだ。撃たれて死ぬか、食わずに死ぬかである。そののち多少給与は上がった。ストの指導者はどこかへ左遷された。
追い詰められたラーゲル内では、日本人同士が持ち物を盗み合った。はんごう、衣服などを。またケンカをして棒でなぐりあい、頭をなぐられ死者も出た。戦後、その兵の遺族が聞きにきたが、遺族には気の毒で病死としか告げることができなかった。
シベリアの労働中、農作業がまだ一番良かった。朝、トラックで農場につれて行かれ、一人一人ソ連人に混じって農作業をする。給与は良かった。ここでは日本人もソ連人も関係なく働き、身振り手振りで会話した。食事は農場でとれたじゃがいもやトマト、川魚を塩で煮たスープを腹一杯食べた。その時ほどジャガイモがおいしいと思ったことはない。時々、監督が来る時にはロシア人はよく働くが、行ってしまうといたって働かない。私達も同じようにした。冬は、凍土の中に掘り残ったジャガイモを食べて飢えをしのいだ。
ノールマと食料
日本人はロシア人よりよく働く。しかしその分またノールマが上がるのだ。シーソーゲームであった。
食料は、ロシア人の主食の黒パンを1.5~2㎝に切った物が私達の1食分である。エン麦など雑穀を漂白せずに焼いた固いパンである。それとスープだ。中身はジャガイモ、塩、塩イワシ、青いトマトが入っていた。分量は労働のノールマによって違っていた。空腹を満たすため持っていた腕時計、衣服はすべて黒パンにかえて食べてしまった。ヨモギや雑草、ヘビ、ネズミなども食べた。
ソ連人の生活
捕虜である私達は当然苦しかったが、ソ連人の生活も楽ではなかった。戦争と不作、生活水準、学力程度の低さが生活を苦しめていた。食べている物を見ると、捕虜の食事とそう変わらないと思った。
病気
多かったのは、食糧不足と労働過重による栄養失調である。採石などの重労働でヘルニアになることもあった。私は急性肺炎で高熱が出た時、労働を休ませてもらった。37度以上の熱が出ると休める。おかしなことに、熱が出なければいくら悪くても病気として認められない。私は復員後、肺浸潤、黄だんなど、次々病気に悩まされた。おそらくシベリアの厳寒での栄養不足、過重労働が影響しているのだろうと思う。
今になって、シベリア抑留者の国家補償の運動がされているが、政府は捕虜の高齢化による減少を待っているとしか思えない。
東京ダモイ(東京に帰れるぞ)
待ちに待った「東京ダモイ」を聞いた。今までだまされ続けて果たして今度は本当なのだろうか。そのうち身辺整理を指示され、田舎町アルチョングレスの駅を出て行軍し、待つこと半日。やっとのことで捕虜列車に乗りこみ、ナホトカ港に着いた。いよいよ「ダモイ近し」である。
野営し、暖を取るために裏山に登ってギョッとした。遺体の手足がピンと雪中に立っている。ここまで来ていながら死んだ者を、埋葬するにも凍結で穴が掘れなかったのだ。
ナホトカでは、洗脳と調査、時間待ちの間の労働が待っていた。違反者はシベリアに戻すというデマにおびえた。
乗船、一本の桜花
1か月余りが過ぎ、やっと乗船の順番である。ソ連兵のチェックを受けて乗船して見ると、一本の桜花が生けてある。私はそれを見た途端、涙があふれた。これを書いている今も涙が止まらない。いつとも知れない帰還の日、何の保障もない明日の命、数えきれぬ死線とやるかたない思いの復員を思いだした
。
舞鶴港上陸
うそではない。やっと安堵して日本へ帰る。3昼夜の航海ののちの朝、「山が見えたとぞー」誰かが叫ぶ。甲板に出ると、はるかかなたに陸らしいものが、かすんで見えた。次第に近づくにつれてはっきりと見える。美しい緑の山々である。何度となく夢に見、終戦後も2年間待ちこがれた日本の山々であった。
下船後、DDTによる消毒。(付記 日本の軍隊内には、階級間の格差がひどく、お互いの間にかなりの憎しみがあった。それをソ連兵もよく知っていて、乗船は上級兵士、抑留中の支配階級の者は除かれた。)
復員
帰ってきたものの、日本兵の家族の消息不明はかなりあった。三田駅のホームにただ一人立ったときは、抑留生活の時のままの私の姿に奇異の目が集まった。女の人は、私が初めて見るパーマ姿である。私達が外地で苦労惨たんしている間にこんなに早や生活が変わってきているのかと思うと、女子のパーマ頭に無性に腹が立った。
父との3年来の対面に言葉が出なかった。よかった、うれしかった、のみである。母の心づくしの弁当を下げ、天神さんの丘にどっかり腰を下ろし昼食を取った。内地ではいろいろなデマ―抑留された者は額に烙印を押されている。帰還する時はみすぼらしい格好である。等々うわさされていた。母は、私がそんな姿ではと気を遣い、夕方暗くなってから帰るように父に伝えていたようだ。山道をゆっくり自転車を押しての帰還である。出征の時は華々しい名誉の出征だと皆に見送られたのに比べ、帰路はまるで罪でも犯したような帰還である。
しかしこの日を母は待ち続けていた。3年間、神に日参したという。
「アア有り難い。」復員第一夜を私は亡くなった戦友を思いながらも、自分の幸運をしみじみかみしめながらぐっすりと眠った。
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